古くから人や技術、文化が集まる先進地であった堺は、商人を中心に繁栄しました。とくに16世紀以降、戦乱の時代にあって、まちを囲む濠(ほり)を造ることで繁栄したまち全体を守ろうとしました。こうした都市を「環濠都市」といい、後に他の都市で発展する多くの城下町もこの仲間といえます。堺の大規模な環濠は城下町の成立よりも早く、また町屋を囲む環濠として珍しいものでした。残念ながら、黄金の日々を謳歌した都市は現在の市街地の地下に眠っていますが、その痕跡はあちこちに点在し、壮大な歴史をたどる道しるべとなってくれます。ここでは「環濠都市・堺」の成り立ちをひもとき、現在も残る遺構を歩いてめぐる楽しみをご紹介します。
堺のはじまり—海と国境があったから発展した!
堺がまちとして発展したのは、摂津・和泉という二国の国境に位置し、すぐそばに海があったという地理的な条件が大きく影響しています。国境は奈良方面への街道でもあり、ほかにも多方面への街道を備えていました。また、堺は奈良の外港であったため、早くから国内の物流の中継地としても発展しました。やがて、15世紀に遣明船の発着港となり、堺は中国や東南アジアなどとの交易によって、国際貿易港として栄華を極めます。こうして海と陸のハブ機能を有した堺には、さまざまなものや人が集まり経済が活性化し、茶の湯、連歌、能楽など豊かな文化が花開いたのです。
中世・堺が謳歌した「黄金の日々」
堺で環濠が発展したのは16世紀のこと。南蛮貿易によってさらに盛んになった海外貿易と、新たにはじまった鉄砲生産によって、堺の会合衆(かいごうしゅう)などの豪商が莫大な富を蓄え、大きな力を持ったことがその要因です。"黄金の日々"と謳われるほどの栄華を極めた堺で、豪商たちはまちの西側を海、他の三方を濠で囲んで防御する「環濠都市」を形成。環濠の入口となる橋に門や門番をつけて外敵の侵入を防ぐことで、戦国時代にあっても、大名に支配されない自治都市を築いていたといわれています。その様子は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが目を見張るほどでした。堺に滞在したポルトガル人宣教師ガスパル・ビレラも、堺を"日本のベニスのごとし"(ベニスのような執政官が治めた自治都市だ)と本国への報告書に記載しています。
なお、鉄砲は当初、ポルトガルから種子島に伝来しましたが、堺の商人がいち早く島を訪れてその製法を習得。弓矢に代わる鉄砲は戦国大名にとって戦いの勝利に欠かせない戦力であったため、堺は瞬く間に日本一の鉄砲生産地となったのです。
なお、中世の堺のまちは後の戦乱で焼き払われてしまったため、当時の姿は発掘資料などから読み解くしかありません。現在では、当時のまちの範囲が江戸時代より一回り狭いものであったことが分かっています。
今も残る環濠—江戸時代の環濠都市—
堺の発展はたびたび権力者の目に留まり、江戸幕府の直轄地となりました。ついには慶長20年(1615)の大坂夏の陣に至り、堺は幕府に対立する豊臣方の焼き討ちにあい、焦土と化しました。その後江戸幕府の手によって一からまちづくりが行われました(これを「元和の町割り」といいます)。戦国時代よりも外側に濠を掘って街区(あるいは「まち」)を拡大し、現在の基幹道路である大道や大小路も再敷設し、碁盤の目状の整然とした現在のまち並みを築きました。「堺環濠都市遺跡」として知られる遺跡はこの時代の範囲を指し、南北3km、東西1kmに及びます。戦後に東側と北側が埋め立てられたため、環濠が今も残っているのは南側と西側のみ。東を阪神高速道路堺線と国道26号線、西を内川、南を土居川に囲まれています。
環濠の歴史がわかったところで、その成り立ちや発展に深く関わった場所を訪ねるまち歩きに出発!「NPO法人 堺観光ボランティア協会」の浅川往子さんに案内していただきました。
VR体験で、中世の環濠都市にタイムトラベル!
最初に訪ねるのは「さかい利晶の杜」。堺が生んだ二人の偉人、千利休(1522-1591)と与謝野晶子(1878-1942)の紹介を通して、堺の歴史・文化にふれられる文化観光施設です。特に、利休が生きた16世紀は、貿易による豊かな富を背景に環濠都市が発展した時代。まち歩きのスタートにぴったりの場所というわけです。
まずは浅川さんの勧めで、1階にある体験型VRコンテンツ『タイムトリップ堺』を体験! 最新型VRゴーグルをかけて円形テーブルの前に立つと、立体映像によって中世の環濠都市「堺」のまちが浮かび上がります。没入感たっぷりに、活気あふれる当時の様子を疑似体験ができるのが魅力です。
浅川さんによれば、「環濠都市と茶の湯」も深い関係があるのだそう。「当時の豪商は優れた文化人でもあり、茶の湯をたしなんでいました。堺の魚問屋『ととや』に生まれ、わび茶を大成した千利休、利休が師事した武野紹鷗、信長や秀吉の茶頭を勤めた津田宗及など、堺出身の多くの豪商たちが、茶の湯の発展に寄与したのです」(浅川さん)。堺環濠都市遺跡から、当時の茶の湯の興隆を彷彿とさせる茶道具も数多く発掘されており、館内にある「千利休茶の湯館」で見学できます。
また、1階観光案内展示室には、堺環濠都市遺跡の発掘調査時に採取された「地層剥ぎ取り標本」が展示されています。「私たちが暮らす地面の下に眠る江戸時代や戦国時代、中世の堺の地層が重なる様子を見ることができますよ」(浅川さん)。現在の地表から1.3mほどの位置には、大坂夏の陣で焼け野原となった堺の焼土層も見られるそう。「この部分がまさに、堺の環濠都市の痕跡なのです」。
利休ゆかりの井戸が伝わる
「さかい利晶の杜のすぐ東側には、茶聖・千利休の屋敷跡があります。誰でも自由に見学できるのでお見逃しなく」と浅川さん。敷地内には「椿の井戸」と呼ばれ、利休の産湯に使われたと伝わる井戸が再建されています。井戸屋形(井戸を覆う建物)は、利休とゆかりが深い京都・大徳寺の山門の古材を使って後の時代に建てられたもの。利休切腹の一因とされる山門の部材があるというのも、なんとも不思議な巡り合わせです……! ここはにぎやかな現在の堺のまちに、ぽっかりと残されたエアポケットのよう。利休を偲ぶかのように、静かな空気が流れています。
江戸中期の港が原型となった、市民憩いの場
続いて、堺の歴史を語る上で欠かせない堺旧港へ。「中世に貿易港として発展した堺港の面影は全くなく、この旧港は18世紀に築港・修理されたものが原型です。それでも十分に長い歴史があり、思いをはせるにはぴったりの場所です」と浅川さん。埋め立てが進んだ現在は港としての機能はなく、親水プロムナード(遊歩道)が整備された市民憩いの場に。南波止には、明治10年(1877)に築造された美しい六角錐の「旧堺燈台」が残されていて、ここから眺める夕焼けは絶景です。
中世の海岸線に出会える場所
「中世の堺港は既に存在しないとはいえ、『当時の海岸線がどこにあったか』を知ることができるんですよ」と浅川さん。案内してくださったのは、現在の海岸線よりも内陸にある「ザビエル公園」。公園の名の由来は、天文19年(1550)に堺に立ち寄ったといわれるイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルをもてなした豪商・日比屋了珪の屋敷がこの近辺にあったことから。日本に最初にキリスト教を伝えたザビエルは、この屋敷を拠点にして布教したといわれています。近隣の発掘調査により、園内にかつての海岸線があったことが分かっており、海岸推定線を示す石が置かれています。
すべての道は堺に通ず!? 堺のメインストリートは国境にあり
続いて訪ねたのは、南海高野線堺東駅と南海堺駅をつなぐ大小路。「堺のまちが国境で発達したことはご存じだと思いますが、この大小路はまさに摂津国と和泉国の国境でした。環濠都市が発展してからは、まちの中心を東西に走るメインストリートとしても機能していました」と浅川さん。なお、大坂夏の陣以前の大小路は、現在とは異なる場所にあったため、国境の位置がその前後で変わっているそうです。
ひっそり残る親柱が、橋の歴史を伝えます
堺市を南北に走る阪神高速堺線が、江戸時代の環濠都市の東端にあたります。「今では想像できないと思いますが、1968年に阪神高速の敷設工事が始まるまで、ここに環濠がありました」(浅川さん)。その歴史を伝えるのが、大小路と阪神高速が交差する地点にある「大小路橋 交差点」です。かつてここには、環濠の外へ出る橋がかけられており、竹内街道や西高野街道につながるまちの東玄関的な存在だったとか。大きな歩道橋の下には、大小路橋の親柱が4つひっそりと残されていて、ありし日の面影を伝えます。
世界に誇る「堺打刃物」の原点にふれる
「環濠都市では、さまざまな産業も発展しました。特筆すべきは鉄砲や刃物生産です」と浅川さん。16世紀半ばにポルトガルから種子島に鉄砲が伝来すると、堺の商人が種子島をいち早く訪れ鉄砲の製法を習得。堺は、鉄砲の一大産地になりました。環濠北部エリアは、鉄砲鍛冶やその関連職人が集住したことで知られています。
堺の伝統産業を一堂に集めた「堺伝匠館」では、1階で堺の特産品を販売し、2階は堺刃物ミュージアム「CUT」や各産業の資料や道具を展示し、伝統的な製法や匠の技にふれることができます。
戦後に環濠の大部分が埋め立てられてしまいましたが、堺には今も江戸時代の遺構の一部が残ります。現在の環濠の姿を、浅川さんの案内で訪ねてみました。
<江戸時代の環濠が残るエリア>
① 南宗寺の南から堺駅前の東側まで流れる「土居川」
② ザビエル公園の西側から、錦西小学校の西側を流れる「内川」
③ 七道駅の東南エリア(環濠都市の北限)
環濠都市の最南端にあるランドマークが、名刹「南宗寺」。16世紀創建の三好氏の堺における菩提寺で、千利休ゆかりの寺としても知られています。「元は別の場所にありましたが、大坂夏の陣で伽藍が焼失した後、この地に移ってきました。環濠都市の南を守護する役割もあったのかもしれませんね」(浅川さん)。
南宗寺と御陵通の間を流れるのが「土居川」です。「大坂夏の陣の後に整備された環濠が、現在まで残っている姿です。南宗寺から堺駅の東側までの約2kmが現存しています。川沿いに駅まで歩いてみるのもいいですね」と浅川さん。
旧堺の西側を流れる「内川」にも、江戸時代の環濠が残っています。場所は堺駅の東側から、堺市立錦西小学校の西側付近を流れる500mほど。「川を挟んで緑地が広がり、春には桜が満開になりますよ」(浅川さん)。
かつての環濠都市の北端にあたるのが、南海本線 七道駅の界隈です。「環濠はここで行き止まり。大きな地図と看板があるので目印にしてください。ベンチもあるので休憩もおすすめです」(浅川さん)。
七道はかつて鉄砲鍛冶が住んでいたエリアで、「鉄砲鍛冶屋敷」(現在非公開。令和5年にミュージアムとして開館予定)が残っています。また、修験道寺院や寺子屋の歴史を今に伝える「堺市立町家歴史館 清学院」などの希少な江戸時代の建物も点在しています。
さらに南へ行けば、現存する数少ない江戸時代初期の商家である『堺市立町家歴史館 山口家住宅』(重要文化財)や、紀州街道沿いの歴史ある商家建築(つぼ市製茶本舗、堺刀司など)があり、その東側は妙國寺、本願寺堺別院などの寺院が旧環濠の近くに並ぶ寺町が続き、風情あるまち歩きを楽しめます。
実際に、環濠都市が築かれていた場所をめぐると、当時のまちの広さや骨格、壮大な歴史の面影が浮かび上がってくるような体験ができます。ぜひ皆さんも、堺の歴史さんぽに出かけてみてください。
監修:堺市博物館学芸員 白神典之氏
協力:NPO法人 堺観光ボランティアガイド協会
撮影:祐實知明
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