堺市立町家歴史館 清学院
修験道の寺院としての歴史とともに、江戸後期から明治初期には寺子屋としても使われ、仏典を求めて日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えた河口慧海もここで学びました。江戸後期の建物は国の登録有形文化財で不動堂、庫裏、門からなり、内部には寺子屋教科書や天神机や文机、小型の硯のほか慧海に関係する資料を展示。
中世から江戸初期の
伝統を今に伝える
歴史的建築物がズラリ
河口慧海ゆかりの町家歴史館 清学院や堺に唯一のこる鉄炮鍛冶屋敷、江戸初期に建てられたといわれる町家歴史館 山口家住宅は、当時の建築を今に伝える文化財です。本願寺堺別院は堺に残る最も大きな木造建築で、堺県庁として使われたこともあります。さらに妙國寺の大ソテツ、南宗寺の枯山水庭園の寺院や、神社などをゆっくりまわってみましょう。
修験道の寺院としての歴史とともに、江戸後期から明治初期には寺子屋としても使われ、仏典を求めて日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えた河口慧海もここで学びました。江戸後期の建物は国の登録有形文化財で不動堂、庫裏、門からなり、内部には寺子屋教科書や天神机や文机、小型の硯のほか慧海に関係する資料を展示。
江戸時代から続く鉄炮鍛冶井上関右衛門の作業場兼住居。わが国の町家建築として最古の部類に属し、鉄炮の生産現場など鉄炮鍛冶屋敷の面影を残す唯一のものとして市の指定有形文化財になっています。切妻造、平入りの建物からなる屋敷は、江戸初期の鉄炮鍛冶の生活がしのばれます。
主屋は慶長20年、大坂夏の陣で市街地が全焼した直後に建てられた、現存する数少ない江戸初期の町家のひとつ。国の重要文化財で、伝統的な堺の町家暮らしを感じることができる魅力溢れる施設です。広い土間に面して畳の部屋が3室並び、土間には梁(はり)と束・貫で構成する小屋組が見られ壮大な空間を作っています。
正中山覚応寺といい覚如上人に帰依「覚応」と改名した伊予の豪族河野通元が建てた覚応坊が起源。住職河野鉄南は与謝野晶子と鉄幹をひきあわせた人で、境内に晶子の歌碑があり、毎年5月29日の晶子の命日に白桜忌が開催されます。
市内最大の木造建築で「北の御坊」とも呼ばれ、現在の本堂は1825年の再建。明治4年の廃藩置県後10年間堺県庁として使用後、浄土真宗本願寺派へ返還され堺県庁跡として府指定の史跡となっています。
1562年日蓮宗の日珖が開いたとされ、境内の樹齢1,100年の大蘇鉄は国指定の天然記念物。千利休寄贈の六地蔵灯篭や瓢箪型手水鉢がある日本唯一の「蘇鉄の枯山水」庭園、堺事件の土佐藩士切腹の地でも有名です。
堺の浜に漂着した菅原道真自作の木像を祭ったのがはじまり、天神さんと呼ばれ堺戎としても有名。1677年築とされる絵様肘木という組物を用いた楼門は府指定有形文化財です。夏のホタル観賞でも知られます。
行基が念仏寺、空海が宝塔を境内に建てたことで「大寺」とも呼ばれる塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神を祀る旧市内唯一の式内社。大寺縁起絵巻、伏見天皇宸翰御歌集、短刀銘吉光は国指定の重要文化財です。
堺で生まれわび茶を大成した千利休。天下一の茶匠として権勢を振るい茶道千家の始祖・茶聖と称されています。屋敷跡には椿の井戸と利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材で建てられた井戸屋形があります。
1557年三好長慶が父の菩提を弔うため大林宗套を開山に建立。夏の陣で焼失後沢庵宗彭らが再建、国の名勝枯山水の庭、重要文化財仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休好みの茶室実相庵などがあります。
堺観光ガイドブック
堺観光ガイドマップ、百舌鳥古墳群エリアマップなどの堺の観光パンフレットは、観光パンフレットページにてダウンロードしていただけます。
あなたは旧式のブラウザをご利用中です
このウェブサイトを快適に閲覧するにはブラウザをアップグレードしてください。