進取の気風

堺ゆかりの人々

人道・仏道に生きた人

三光国師(さんこうこくし)
正平十六年=康安元年(1361)没

会津出身の僧覚明は、比叡山で禅を修め応長元年(1311)元(中国)に渡りました。帰国後仕えた後村上天皇から三光国師の号を授かり、堺・高師の浜に大雄寺を建てました。
「高師の浜の寺」が「浜寺」となり、今の地名となりました。

蓮如上人(れんにょしょうにん)
応永二十二年~明応八年(1415~1499)

京都出身の僧で本願寺中興の祖。十七歳で得度し、父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写し、経典を修めました。畿内でも各地に寺を開き、堺の信証院(堺御坊)で布教活動をおこないました。のちに本願寺八世となり山科に本願寺を再興。明応五年(1496)には石山本願寺を創建しました。

大林宗套(だいりんそうとう)
文明十二年~永禄十一年(1480~1568)

京都出身の僧で一時大徳寺九十世となり、堺に来て南宗寺の開祖となりました。三好一門はじめ阿左井野宗瑞、千利休、津田宗及、今井宗久など、多くの堺衆がその教化をうけました。

沢庵宗彭(たくあんそうほう)
天正元年~正保二年(1573~1645)

但馬出身の僧で慶長十二年(1607)南宗寺十二世、同十四年大徳寺百五十三世となりました。元名兵火後、南宗寺を復興し祥雲寺も開山しました。
その後たびたび堺を訪れ教化に努めるとともに、書画・俳諧・茶道に通じていました。

日珖(にちこう)
天文元年~慶長三年(1532~1598)

日蓮宗の僧で堺の油屋常言の子。三井寺、奈良、比叡山で仏学を究めるとともに神道をも修めました。特に説法が上手で、人々の尊信を集めたといわれています。
永禄十一年(1568)父常言の援助を得て、堺に妙国寺を創建しました。

茶の湯の道を拓いた人

武野紹鷗(たけのじょうおう)
文亀二年~弘治元年(1502~1555)

武野紹鷗像

武野紹鷗像

大和出身の茶人・豪商で後に堺に移り住みました。上洛して三条西実隆に和歌を、宗陳・宗悟らに茶の湯を学びました。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許されました。
茶道においては茶禅一味のわび茶を説き、茶道勃興期の指導者として今井宗久や千利休をはじめとする多くの門人に大きな影響を与えました。

津田宗及(つだそうぎゅう)
天正十九年(1591)没

堺の茶人・豪商で堺の会合衆・天王寺屋に生まれ、父・津田宗達に茶の湯を学びました。今井宗久、千利休とともに信長に仕え、その後は秀吉の茶頭として三千石を得ました。家には多数の名器を持ち、茶会に関する逸話も多くあります。

今井宗久(いまいそうきゅう)
永正十七年~文禄二年(1520~1593)

大和出身の茶人・豪商。堺に来て茶の湯を武野紹鷗に学び、女婿となりました。商才を発揮して信長に接近し摂津五ヶ庄、生野銀山の代官職などを歴任しました。千利休、津田宗及とともに信長・秀吉に仕え茶の三大宗匠といわれました。

山上宗二(やまのうえそうじ)
天文十三年~天正十八年(1544~1590)

堺の茶人・商人で千利休から茶の湯を学び、利休や津田宗及とともに秀吉の茶頭もつとめました。利休から学んだ茶の湯の秘伝を含む、茶の湯生活三十年の覚書を残した「山上宗二記」は、茶道研究において一、二を争う資料となっています。

力で繁栄を築いた人

小西行長(こにしゆきなが)
慶長五年(1600)没

小西行長屋敷跡石碑

小西行長屋敷跡石碑

堺の薬種商で秀吉の御用商人であった小西立佐(隆佐)の子息。秀吉にとりたてられ肥後国宇土二十四万石の領主となりました。関ケ原の戦いでは石田三成らとともに西軍で戦いましたが、敗れて六条河原で処刑されました。
熱心なキリスト教徒としても知られ、一族を挙げて堺に孤児院を建てるなど社会事業に尽くしました。

三好長慶(みよしながよし)
大永三年~永禄七年(1523~1564)

阿波の国出身の戦国武将でもと管領細川家の被官。和泉・河内の代官として堺を支配し、海船浜に広大な私邸があり「堺政所」ともなりました。長慶は教養人として知られ、和歌・連歌・茶の湯などを通じて堺衆と交流しました。

医術・仁術で尽くした人

阿佐井野宗瑞(あさいのそうずい)
享禄四年(1531)没

堺の医師で、大永八年(1528)私財を投じ、明版の「医書大全」二十四巻を印刷刊行し、日本の医学会に大いに貢献しました。これはわが国初の医書の刊行でした。

商才で世に名を馳せた人

納屋助左衛門(なやすけざえもん)
生没年不詳

室町末期の堺の貿易商人で、呂宋(るそん)助左衛門の名で知られています。文禄二年(1593)ルソンに渡り、輸入したルソン壺が茶器として珍重され多くの財を得ました。のちに贅沢な生活が秀吉の怒りにふれ、カンボジアに逃避しました。

橘屋又三郎(たちばなやまたさぶろう)
生没年不詳

室町末期の堺商人で、天文十二年(1543)鉄砲が伝来した後、種子島に渡って鉄砲の製法、使い方などを学びました。堺に帰り鉄砲づくりに励んで諸国に売りさばいたことから「鉄砲又」と呼ばれるに至りました。

日比屋了慶(ひびやりょうけい)
生没年不詳

室町末期の堺の商人で、フランシスコ・ザビエルが堺を訪れた時、手厚く世話をしました。のちに洗礼を受け、邸宅を南蛮寺として信者を集め、その跡は現在ザビエル公園となっています。

谷正安(たにしょうあん)
天正十七年~正保元年(1589~1644)

堺の商人で沢庵和尚に帰依し、寛永五年(1628)沢庵を開山にして、海会寺跡に祥雲寺を創建したのち出家し仏門に入りました。祥雲寺は戦災で焼けましたが、枯山水の庭は大阪府の指定文化財になっています。

布屋次兵衛(ぬのやじへい)
元禄十年~享保十二年(1697~1727)
谷善右衛門(たにぜんえもん)
延宝三年~寛保元年(1675~1741)

ともに堺出身の商人で、大和川のつけかえで堺港が砂で埋没するのを嘆いた布屋次兵衛は、その修築を幕府に願いでました。工事着工前に亡くなった次兵衛の志を継いで、その妻の父谷善右衛門が、多額の私財を投じて工事を完成させました。
茶の湯や華道、楽焼にも優れその焼き物は「谷焼き」としてもてはやされました。

吉川俵右衛門(よしかわひょうえもん)
享保十五年~文化七年(1730~1810)

江戸浅草の人で安永六年(1777)堺を訪れた際、堺港の築港、修理の必要を痛感し翌年幕府に築港を出願しました。寛政三年(1791)許可され着工し、大災害など困難を乗りこえ二十年目に完成させました。

鳥井駒吉(とりいこまきち)
嘉永六年~明治四十二年(1853~1909)

堺の人で十七歳にして酒造業をおこし、商才と先見の明で数々の事業を成功させました。明治二十年、わが国最初の大阪麦酒株式会社(現アサヒビール)を創立しました。また阪堺鉄道株式会社(現南海電鉄)も創設しました。

技法に生涯をかけた人

芝辻理右衛門(しばつじりえもん)
寛永十一年(1634)没

堺の鉄砲鍛冶芝辻の家に生まれ、鉄砲製造の技術に長じていました。慶長十六年(1611)徳川家康の命により、口径一尺三寸、長さ一丈、砲丸重量一貫五百匁の大筒を製作して献上しました。

榎並屋勘左衛門(えなみやかんざえもん)
寛永二十年(1643)没

堺の鉄砲鍛冶の家に生まれ、徳川家康が江戸幕府を開いた時、御用鉄砲鍛冶として重用されました。その後鉄砲年寄もつとめ、江戸道三河岸に邸を与えられ御用鉄砲鍛冶として尽くしました。

文芸で異彩を放った人

河井醉茗(かわいすいめい)
明治七年~昭和四十年(1874~1965)

堺の北旅籠町大道筋呉服商・河文に生まれ、二十二歳の時上京して作詩活動を開始しました。関西に戻ってからは関西青年文学会の機関誌「よしあし草」の刊行に協力しました。明治三十四年処女詩集「無限弓」で世に認められ、明治四十三年「霧」を刊行するなど新体詩の開拓に力を尽くしました。

芸に技に花咲かせた人

曽我廼家五郎(そがのやごろう)
明治十年~昭和二十三年(1877~1948)

堺の宿院町に生まれ本名は和田久一。十六歳のころ中村珊瑚郎に弟子入りし珊之助と名乗りましたが、門閥や家柄に恵まれず一念発起、旅まわり役者として芸を磨き「大阪にわか」の系統を引く新喜劇「五郎劇」を創始しました。
庶民的な喜劇を自ら執筆、上演し、大衆の好評を得て一躍人気者となりました。その自作自演は千作を超え、長く「喜劇王」の名をほしいままにしました。「五郎劇」の伝統は現在の松竹新喜劇に受け継がれています。

高三隆達(たかさぶりゅうたつ)
大永七年~慶長十六年(1527~1611)

堺顕本寺の子坊、高三坊の第一祖で、還俗して高三家に復帰しました。天性の美音で僧として学んだ声明、諷誦をはじめ各種の音曲に精通し小唄「隆達節」を創出しました。
これは室町時代の「閑吟集」の流れを汲むもので、江戸時代に登場する様々な音曲へとつながる、重要な役割を持ったものです。

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