堺・蜂田郷(現在の家原寺)に生まれた行基は、"広く民衆を救う"という仏教本来の姿を取り戻すべく、一生を民間布教と社会事業にささげました。
生涯に49の寺を建立し、その一つである大野寺土塔からは、築造に協力した人々が自らの名前を記したと考えられる文字瓦が多数発掘されています。また、東大寺大仏建立にも加わり、天平十七年(745)聖武天皇から大僧正の位に任ぜられました。
行基画像(堺市博物館蔵)
家原寺
堺の裕福な町衆、魚屋(ととや)に生まれた利休は、早くから茶の湯に親しみ北向道陳、武野紹鷗に師事しました。堺の豪商の一人でもあった利休は茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら茶道を大成しました。
北野の大茶会を取り仕切るなど、天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。
現在の茶道千家の始祖であり茶聖と称せられています。
千利休画像(堺市博物館蔵)
千利休屋敷跡
仏教に傾倒した慧海は当時の翻訳仏典に疑問を感じ、33歳の時に真の仏典を求めてヒマラヤ山脈を越え、当時鎖国中のチベット入りを果たし、膨大なチベット語経典や民族資料などを収集しました。
47歳の時に再度チベット入りをした後、在家仏教僧として仏教の普及に生涯をささげました。当時の体験をまとめた「チベット旅行記」は、学術的価値とともに探険記としても高く評価されています。
写真提供:堺市博物館
大鳥郡舳松村(現在の協和町)に生まれ、幼少期から路地裏で大人が指す将棋を見て覚えた三吉は、自由な発想で常に可能性を広げていく定跡にとらわれない将棋で、驚異的な強さを発揮しました。実力社会といわれた将棋界で大成し、好敵手関根金次郎と一時代を築きました。
昭和三十年には、日本将棋連盟から名人位と王将位が追贈されました。三吉が愛用の将棋盤のふたに書いた「馬」の文字は、いななくような躍動感にあふれています。
写真提供:舳松人権歴史館
堺の甲斐町に和菓子で有名な駿河屋の三女として誕生した晶子は、明治・大正・昭和を短歌とともに生き、「情熱の歌人」と呼ばれました。また同じ文学者鉄幹(寛)の妻であり、11人の子どもたちの母でもありました。
明治三十四年に出版された「みだれ髪」は、鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげ、浪漫主義の代表作となりました。
また詩、評論、古典研究など、さまざまな執筆活動を展開する一方、女性の権利に焦点をあてた評論も多く著し、当時の女性の地位向上に積極的に取り組みました。
写真提供:文化学院
あなたは旧式のブラウザをご利用中です
このウェブサイトを快適に閲覧するにはブラウザをアップグレードしてください。