堺まつりの起源
堺まつりの原型は、400年前の住吉祭礼図屏風にあり!
毎年8月1日におこなわれている住吉祭は、堺のまちの長い歴史のなかでも最も長く続けられてきた行事です。
ここでは、住吉まつりとその前日である7月31日に開催されている堺大魚夜市の起源や歴史についてみていきます。
住吉祭は、暦のうえで夏が秋に替わる夏越(なご)しの日である旧暦6月晦日の午後に、住吉の神輿が堺宿院のお旅所に渡御(とぎょ)する祭りです。
住吉祭は、奈良・平安時代ころにまとめられた『住吉大社神代記』に、堺での「六月解除(はらえ)」として既に見えています。
鎌倉時代末期の『住吉太神宮諸神事次第』には、6月晦日に堺の開口宿院へ渡御する神輿(みこし)などの行列のことが記されています。
住吉大社が開催する年中行事のなかでも最大の祭りであり、古代から中世・近世にかけて大坂の天神祭を超える歴史と規模を誇ってきました。
江戸時代初期の住吉祭のようすが、堺市博物館所蔵「住吉祭礼図屏風」に描かれています。
左右1双屏風のうち、左半分(左隻)には住吉大社から出発する神輿などの神事行列を描いています。
そして右半分(右隻)には堺のまちを描き、住吉祭に合わせて仮装行列する堺の町の人々を描いています。
この右半分を、堺市役所高層館の1階東玄関では分かりやすく拡大模写の陶板にして掲げ、そこでも具体的に見ることができるようにしています。
安土桃山時代の堺には、イエズス会の宣教師やポルトガル商人などがおり、国際貿易都市だったことを彷彿(ほうふつ)とさせてくれます。
この屏風には、まつりの舞台である堺のまちも大きく描かれています。
L 海岸部を進む行列に対して、その上、画面の中心部を左右に通っているのが紀州街道です。
堺は、大小路を中心にしてそれより北側の摂津国堺、南側の和泉国堺に分かれ、その南北のまちがそれぞれ発展してきました。
商業港が、中世から南北にありました。江戸時代、魚市場も南北それぞれにあったことから、漁業港も南北にあったと思われます
(吉田豊「港からみた堺の歴史」『堺市博物館報』27号)。
摂津側の魚市は北の魚市や海船浜の市と呼ばれ、今の南海線七道駅付近にありました。
夏はここで蛸の市がおこなわれましたが、江戸時代に大和川がすぐ北側に付け替えられ土砂が溜まると、
港がなくなり魚市もだんだん和泉側に移りました。
一方、和泉側の魚市は南浜の市などと呼ばれ、夏は大浜海岸、冬は内川沿いで開かれたりしてきました。
大魚夜市は、この南北の魚市において住吉祭の日に開かれ、堺にお渡り(渡御)してくる住吉の神に魚を奉納する特別な市だったようです。
住吉の神は海の神であり船の守護神であったので、漁民からの信仰を広く集めていました。
与謝野晶子は、子供のころに生家で見聞きした住吉祭やその前夜におこなわれた夜市の様子を記しています(『郷土と趣味』昭和13年)。
このことから通常の魚市だけでなく大魚市やさらには夜市も、住吉祭とともに古くからおこなわれてきたのではないかと推測することができます。
世界的にみても、最も古くから続いている例礼の一つである住吉祭の中心行事として、堺渡御は堺が全国に誇ることのできる行事です。