堺市堺区材木町東4-1-4
時は戦国時代、遠い南の国から運ばれてきたという妙國寺のソテツは当時大変珍しがられ、天下統一を果たした織田信長も羨望の的に。ついにその権力をもって安土城へ移植させてしまいました。ところが、そのソテツは毎夜毎夜「堺へ帰ろう」とすすり泣くのです。激怒した信長が部下に命じてソテツを切らせたところ、切り口より鮮血が流れ、大蛇のごとく悶絶。さすがの信長も気味悪がり、ソテツを妙國寺に返し届けました。痛めつけられたソテツは今にも枯れそうになり、日珖上人が読経したところ回復。ここから「蘇鉄」という名がついたと言われています。
このエピソードは、江戸後期に書かれた武勇伝「英傑三国誌伝」にも登場。織田信長を震撼させたソテツの伝説として伝えられています。現在、妙國寺の大ソテツは樹齢1100年と言われ、大小120数本の幹枝を数え周囲は17m、樹高は5m以上にも。堺では唯一つの国の天然記念物に指定されています。
天然記念物指定の大ソテツ。織田信長が月明かりのもと、大蛇のごとく見えたのも頷けるような様相。生命力の強さから安産祈願でも人気がある。
妙國寺は堺の中心部、材木町に門を構える永禄5年(1562)建立の寺。当時堺を支配した三好四兄弟の一人が日珖上人に土地を寄進し、上人の父であり堺の豪商として知られる油屋常言の協力により建てられました。日蓮宗の代表的な寺院として、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受けて栄華を極めながら、大阪夏の陣で「徳川家康妙國寺に有り」と聞きつけた豊臣兵により火を放たれ、灰燼に化します。江戸期に再建されてからも再び堺大空襲により消失。昭和48年に三たび再建されたものです。
その二度の大火をくぐり抜け生き残ったのが霊木ソテツです。現在では寺の至る所に移植され、別名「ソテツ寺」の趣たっぷり。年間を通じて白砂利に映える濃い緑が楽しめます。本堂からは日本ではここだけというソテツを背景にした枯山水の庭が一幅の絵のように臨め、南国の趣と日本のわびさびが調和した一種不思議な風情に魅了されます。
本堂から眺める庭はまさに一幅の絵。他にないソテツの枯山水は必見の価値あり。
妙國寺はまた、哀しい兵士の物語でも語り継がれています。慶応4年(1868)堺に上陸したフランス兵と警備にあたっていた土佐藩士との間で争いがおこり、フランス人が多数死傷。この事件は国際問題となり、責任を追及された土佐藩兵士11名が境内で切腹しました。後に森鴎外が小説で記した有名な堺事件です。境内には土佐藩士割腹跡の碑が立ち、兵士をしのんで供養塔が建立されています。このほか境内には、千利休が寄贈した六地蔵や手水鉢があり、徳川家康や与謝野晶子、正岡子規がソテツを詠んだ歌碑も点在。時の権力者と時代のうねりに翻弄され幾多の波乱を乗り越えてきた妙國寺。大ソテツはその歴史を、今日も静かに見守り続けています。
土佐十一烈士の供養塔。維新草創の波にもまれ潔く殉じた十一名の胸中はいかばかり。寺にはその遺品も残されている。
「妙なりや 國にさかゆる そてつぎの ききしにまさる 一もとのかぶ」と詠んだ徳川家康の歌碑。本能寺の変の時にこの妙國寺に宿泊しており、伊賀越えで岡崎に苦労して帰ったという家康の逸話も語り継がれている。
千利休寄贈の瓢型手水鉢。
お寺の歴史を知ることは堺を知ること。歴史と文化のある堺を復興したいと熱っぽく語る妙國寺貫首の岡部さん。
豪商油屋さんの協力により建てられた妙國寺は、広大な敷地に大きな伽藍があり、堺でも目をひく三重塔があった立派なお寺です。しかし二度の大火で消失してしまいました。その中で生き残ったのが大ソテツ、まさに寺の霊木です。そのソテツがなぜ夜泣きのソテツと言われているのか。語り継がれる以上、なんらかの真実があるはずです。私は安土城のソテツが移植時に一部枯れ、中が空洞化していたのではと推測しています。空洞に琵琶湖の風が吹き込み笛のような妖しい音をたて、また中にたまった雨水が鮮血のごとく吹き出したのではないでしょうか。いずれにせよ堺を愛する人たちが伝説を生んだのでしょうね。みなさんも妙國寺でぜひ歴史の真実を探ってみてください。
※掲載情報は、取材時点のものです。現在の情報については、直接お問い合わせ下さい。
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