ポルトガルから種子島に鉄砲が伝えられた直後、堺の商人橘屋又三郎が種子島を訪れ鉄砲の製法を学んできたのが、堺で鉄砲が作られるようになったはじまりといわれています。
又三郎は「鉄砲又」といわれるほど鉄砲作りがうまかったこと、堺では平安時代から鋳造・鍛造の高度な技術が伝えられていたこと、火薬の原料となる硝石を輸入できたことがその理由でしょう。
明治三十年代の初め、北川清吉が堺の町を自転車で走り人々を驚かせましたが、当時自転車は輸入品のみでブレーキもなく、故障や転倒が多く修理が必要でした。
それに対応できたのが、戦国時代から受け継がれた金属加工の豊かな経験と高度な技術を持つ鉄砲鍛冶。桜之町の近藤嘉吉がハンドルやホークを作ったのが、堺の自転車製造の始まりとされています。
十六世紀後半に伝えられ、次第に庶民の間に広まったタバコ。その葉を刻むタバコ包丁こそが江戸時代の堺の特産品です。
その起源には二説があり、手名長兵衛が作ったカミソリを大坂で売るうちに、その切れ味の良さが秀吉の耳に入り、作るようになったと伝えられる「おかた包丁」。
もうひとつは堺の旧家に伝わる書物による、梅枝七郎右衛門が作った「石割包丁」がもとになったという説で、名工の七郎右衛門が打った包丁はとても良く切れ、石を割るほど鋭いとの評判でその名も生まれました。
幕府の極印「堺極」を認められた堺のタバコ包丁は、全国で売られその名を高めていきます。
十六世紀の終わりに、日本で最初に線香が堺で作られました。香を棒状に練り固めた現在の線香の製法は、キリシタン大名で知られる小西行長の兄によって中国から伝えられたといわれています。
堺は当時わが国有数の貿易港であり、交易品で珍重された白檀や沈香など原料の香木が集まりやすかったことや、寺院が多かったことが線香づくりの発展を支えたと思われます。
明治十八年十二月、日本初の私鉄-阪堺鉄道が、難波駅から天下茶屋、住吉を経て大和川北岸(大和川駅)の区間で開業しました。当時官営鉄道は営業していましたが、一切を民間の手でなしとげたのは阪堺鉄道がはじめてでした。
はじめは「火をふく車」といって尻ごみする人もいましたが、すぐに慣れ二十一年五月には堺の吾妻橋まで営業距離も延長されました。
明治九年、堺港の近代化に向け石工・継国真吉、大工・大眉佐太郎らに請け負わせましたが、燈台の資金は町民の寄付でまかなわれ、基礎から燈塔まで日本人の手で仕上げられました。
その後約九十年間、大浜燈台はその使命を果たしてきましたが、堺の海が埋め立てられ「陸にあがった燈台」になり、現在は国の史跡に指定・保存されています。
もともと日本酒は全部樽詰めで、小売は枡で量り売りしていましたが、枡から壷に移す際こぼれるお酒のロスをなくそうと、堺の酒造業者の鳥井駒吉が瓶づめの酒を考案しました。
彼はこの瓶づめの酒を明治二十一年のスペイン万国博覧会に出品し、日本酒の輸出をはかったほか、アサヒビールの前身である大阪麦酒を創設しました。
大正八年十一月、大浜で第一回全国学生相撲大会が開かれました。新聞に「三万の観覧者、或いは熱奮し或いは酔うが如し」と記されるくらいの熱狂ぶりでした。
大浜が開催地に選ばれたのは、阪堺電車と南海電鉄による交通の便の良さと、関西初のレジャーゾーンとして選手・観客の宿泊に好都合だったことがあります。
永禄五年(1562)、堺の琵琶法師に琉球帰りの船乗りがみやげに持ち帰った珍しい楽器(サムシェン)-これが三味線のはじまりです。
中小路法師はこの楽器の二本の弦を三本に、丸い胴の部分を角形に、その皮を蛇のかわりに猫の皮に改良し三味線の原型が誕生したのです。
琉球みやげの楽器がはじめから三弦だったという説もありますが、日本独特の三味線を考案したのは、堺の琵琶法師の音への執念にちがいないのです。
天保二年(1831)、堺ではじめて緞通を製造販売したのは糸物商の藤本庄左衛門。堺緞通第一号を織ったのは機屋の泉利兵衛でした。
堺緞通のもとになったのは佐賀の鍋島緞通や中国の緞通で、一本一本手で編みながら模様を仕上げる大変な作業でした。堺緞通の名は、明治十年東京での第一回内国勧業博覧会に出品された時につけられたもので、安価で高品質と好評を得ました。
金魚の産地といえば、奈良県大和郡山市などが有名ですが、文亀二年(1502)遣明貿易で栄えた堺の港に、はじめて原産地中国からもたらされました。その時の金魚は赤・白・黒の三種類でした。
十八世紀半ば、金魚についての本「金魚養玩草」をはじめて書いたのも堺の人で、それには金魚のよしあし、オスメスの見分け方、病気とその治し方が書かれています。
海国日本の青少年がカナヅチでどうする!の考えのもと、大阪毎日新聞は明治三十九年七月、浜寺水練学校をスタートさせました。
エリートコーチの徹底した指導によって、“三日で泳げる”と評判になり、全国各地から入門者がつめかけました。
文禄三年(1594)、納屋助左衛門が南方貿易で今のように開閉できる傘を持ち帰り、豊臣秀吉に献上し傘が普及しはじめました。自在に開閉できる傘は助左衛門が持ち帰る以前に、南中国から伝えられたとする説もあります。
明治時代、商品の広告を入れたレンタル雨傘を考え出したのも、堺の河盛仁平で堺人のたくましい商魂がうかがえます。
堺の樽屋の長男であった河口慧海は「釈迦一代記」に感動して僧になり、明治三十二年に日本ではじめてチベットに入りました。
彼の苦労話は著書「チベット旅行記」に記されていますが、その苦労と厚い仏教信仰が報われ、六年後に無事帰国。のちに再びチベットに渡り、チベット語一切経に加え、書籍・美術品などを持ち帰りましたが、チベット旅行記の記録は今でも高い学術的価値を保っています。
堺・高松間の定期航空が、わが国商業定期航空の第一号。大正十一年堺のパイロット井上長一が、市から大浜の水面を借りて日本初の民間飛行場をつくり、定期航空をはじめました。
その後今治、別府へも定期航空路をひろげ堺は民間航空の要となり、後世の民間航空事業に多大な功績を残しました。
明治二十年頃、堺の打刃物問屋浅香久平が、輸入品であったショベル・スコップなどを東京で見たのをきっかけに、土木工事が増える日本で、国産のショベル・スコップを作れば社会に貢献できると考えました。
明治二十六年に工場を完成させ、工業生産にこぎつけましたが、その後も品質改良を続け、「折レズ曲ラズ絶対保証」の製品は大評判となり多く輸出されました。
港町堺の商人たちは船に親しみ、海を股にかける活躍で南方貿易に励んでいました。その堺人が元和五年(1619)に発明したのが菱垣廻船で、多くの荷物が落ちずに積めるように、ヒノキか竹を交叉させた菱垣を船の両へりに設けました。
その舳先についていた黒い鳥毛は、堺の船が軍需品の輸送にあたった功により、秀吉から鳥毛を授けられたのがはじまりです。
中世から近世にかけて、自由闊達な空気が流れ文化が栄える堺で、初代喜多七太夫の喜多流と、初代宮尾道三の宮尾流という謡曲の流派が生まれました。
また謡本をはじめて刊行したのも堺の人です。
それまで熟練工が一足ずつ仕上げ一日三足ぐらいの足袋製造を、明治二十八年に福助足袋の創業者辻本福松が、ドイツ製の靴縫機械を改良してその機械化に成功しました。
足袋縫ミシンの特許第一号も取得しています。
木綿の布地に多彩な模様を染めた布である更紗は、室町時代末期の南方貿易で堺に輸入され珍重されました。
その後和泉・河内の白木綿が堺に集まるようになると、鍋島更紗の技術を取り入れて、すり込みの更紗を作ったのが堺更紗です。
わが国で印刷・出版された医書のはじめは堺からで、享禄元年(1528)に阿佐井野宗瑞が私財を投じ、医家の虎の巻ともいうべき「医書大全」を刊行しました。
これにより、医学の広まりが促進されたといわれています。
明治初めの輸入セルロイドの加工から、明治後半には堺セルロイドがわが国初のセルロイド工場を建設し、明治四十三年にその製造が開始されました。これが今日の株式会社ダイセルの基礎となりました。
堺への工場立地はセルロイド製造に最も重要な良質の水として、大和川や酒づくりに適した井戸水があったからです。
堺市石津町の高野長次郎は自転車の車輪のようなものを回転させて、そこに稲を打ち当てたらと考え自転車の廃品を集めました。主軸と足踏み動輪に自転車のギアを取り付けてチェーンで連結して作りあげたのが、足踏み回転脱穀機第一号です。
これは稲こき作業の能率を画期的に飛躍させることになりました。
常磐津・長唄・新内・清元など日本古来の音楽のもととなった江戸浄瑠璃を起こしたのは、三味線発祥の地堺の虎屋小平太(後の薩摩浄雲)。文禄のころ京都で沢角検校の弟子となって音曲を学び優れた才能を発揮したのち、江戸にくだって浄瑠璃を語り広めました。
小唄「隆達節」の生みの親高三隆達は、堺で生まれ日蓮宗の僧となったのち、還俗し天性の美声と作曲の才を合わせもった、いわばシンガーソングライターのはしりです。
隆達節はその頃琉球から伝わった三味線とともに全国を風靡しました。
全国に六百近くある銀座という名は、慶長六年(1601)に銀貨を作る鋳造所につけられたのが最初で、その銀貨を日本ではじめて作ったのが堺の人たちです。堺では銀の売買、銀細工をする人たちが、各地から荒銀を買い集め加工して売っていました。
徳川家康は貨幣制度を確立するため、伏見に鋳造所をつくり、その技術長に堺の湯浅作兵衛を選びました。
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